使い切れないと分かっていても白菜を買ってしまう日の、やさしい言い訳

冬の夕方って、空気が薄い飴みたいに冷たくて、息を吸うだけで喉の奥がキュッと縮む。
今日は、うまくいかなかった。大きな失敗じゃない。むしろ「これくらい」で済ませられる小ささが、じわじわ嫌だった。
帰り道、スーパーの入口で手袋を外すのが面倒で、カゴの持ち手を素手で握った瞬間、金属の冷たさがやけに刺さった。店内のBGMは明るいのに、私の気分だけが低い位置でコツコツ歩いてるみたいで。
それで、なんとなく野菜売り場に逃げ込むみたいに向かった。
白菜が山みたいに積まれていた。
大きくて、ずっしりして、白と淡い黄緑がきれいで、なんだか「この子は裏切らない」って顔をしてる。
私は今日、人に裏切られたわけじゃない。自分の期待に、自分が追いつけなかっただけなのに。なぜか白菜の前だと、それを認めやすくなる。
「半玉でいいかな」って思ったのに、手が伸びたのは丸ごと一玉だった。
一人暮らしのキッチンに、一玉の白菜。
冷蔵庫の引き出しの狭さとか、使い切れない未来とか、そういう現実は分かってるのに、買ってしまう。
たぶん今日は、ちゃんとできなかった自分に、「せめて何かを育てたい」みたいな気持ちがあったんだと思う。育てるって言っても、ただ食べるだけなのに。
家に帰って、コートを脱いで、暖房をつけて、シンクの前に立つ。
白菜を袋から出した瞬間、あのシャキシャキの手触りが伝わってきて、少しだけ心が戻ってきた。
不思議。食材って、たまに人より優しい。
白菜の白い層をほどくみたいに、今日の気持ちをほどいてみる
白菜を洗おうとして、ふと止まった。
「洗い方」って、正解があるようでない。芯の方まで剥がして一枚ずつ洗うのが丁寧だって分かってる。でも、今日は丁寧にする元気が残っていなかった。
外側の葉を何枚か外して、ざっと水を当てる。葉の間に水が入って、少し遅れてぽたぽた落ちる音が、部屋に静かに響く。
切り方も、いつも迷う。
縦に割って芯を残してざくざく切ると、炒めても煮ても形が残って「シャキッ」とする。
逆に、芯を斜めに削ぐように切ると、火が入ったときに甘みが出て「とろっ」とする。
私は今日、どっちが欲しいんだろう。
強さ? それとも、ほどける感じ?
包丁を握ると、余計なことを考えなくて済む。
リズム良く切るだけで、頭の中の散らかった文章が、行間を整えていくみたい。
でも、完全には消えない。
切っても切っても、今日の「うまくいかなかった」が薄く残る。まな板の上の水滴みたいに。
白菜って、一度にたくさん手に入ることがある。冬のあるある。
「いっぱいあるなら、いくらでも使えるよね」って言われるけど、いくらでもって、意外と難しい。
一人分の夕飯は、すぐ終わる。
一玉の白菜は、明日も明後日もそこにいる。
冷蔵庫の中で、私の生活を見ている。
保存も、結局は気持ちの問題になる。
新聞紙やキッチンペーパーで包んで、ポリ袋に入れて、野菜室へ。
芯に近い方から使うと長持ちする、とか。
カットしたら断面をラップで密着させる、とか。
冷凍するなら、ざく切りにして水気を拭いて、袋に平らにして…とか。
知ってる。知ってるんだけど。
「ちゃんと保存しよう」と思える日と、思えない日がある。
今日みたいな日は、丁寧な保存が“優等生の作業”に見えてしまって、妙に遠い。
でも、雑に扱うほど、自分のことも雑に扱ってる気がして、また小さく傷つく。
白菜はただの野菜なのに、私の機嫌を映す鏡みたいになる。
それでも、せっかく一玉買ったんだから、何かに変えていきたい。
レシピを「ちゃんと」作る気力はなくても、思いつきでできる形なら、今日は許せる気がした。
だからここに、私の“おすすめ”というより、“たぶんできる”白菜の使い道を、11個だけ置いておく。
完璧なレシピじゃない。気分が揺れている日の、逃げ道みたいなもの。
- 白菜とベーコンの塩スープ(切って煮るだけ。塩で整えると、気持ちも少し整う)
- 白菜のミルフィーユ鍋(きれいに重ねられない日もある。崩れてもおいしい)
- 白菜とツナのレンチン和え(“火を使わない”が今日は正義)
- 白菜の浅漬け(袋に入れて揉むだけ。明日の私への小さな手紙)
- 白菜のクリーム煮(とろっとしたやさしさが欲しい夜)
- 白菜と豚こまの生姜炒め(シャキッとさせると、私も少しだけ立て直せる)
- 白菜チャーハン(ごはんが余ってるときの、救済措置)
- 白菜と卵の中華スープ(卵のふわふわに、許される感じがある)
- 白菜と明太マヨのサラダ(混ぜるだけで“私、工夫した”って顔ができる)
- 白菜のグラタン風(チーズに頼る。頼っていい)
- 白菜と油揚げの煮びたし(地味だけど、静かに沁みる)
この11個を眺めていると、ちょっとだけ気が楽になる。
「一玉を使い切る」というタスクが、急に“未来の可能性”に見えてくるから。
でも同時に、思う。
未来の可能性って、今日の私が元気な前提で作られてない? って。
ちゃんと使い切れない夜に、白菜だけがきれいに残る

結局、今日の私は、1)の塩スープを作った。
鍋に白菜を入れて、ベーコンを入れて、水を入れて、火をつける。
ぐつぐつと沸く音が、部屋の静けさに溶けていく。
湯気で眼鏡が曇って、世界が一瞬ふわっとぼやける。あれが嫌いじゃない。
曇ったままでいい時間って、たまにある。
スープをひと口飲んだら、白菜がちゃんと甘かった。
噛むとシャキッとして、でもすぐほどけて、喉の奥にやさしく落ちていく。
「優しい味」って、誰にでも言える言葉のはずなのに、今日はその優しさが、私だけに向けられているみたいに感じた。
それで、少しだけ反省が始まる。
今日の“うまくいかなかったこと”って、たぶん、相手のせいじゃない。
私が勝手に焦って、勝手に期待して、勝手に空回りした。
でもその“勝手に”を責めたいわけじゃなくて、ただ、そういう日もあるって言いたい。
白菜みたいに、層がある。
外側の葉は、ちょっと傷がつきやすい。
内側は、淡くて、やわらかくて、ちゃんと守られてる。
私は今日は外側だけで生きていて、内側に触れる前に疲れたのかもしれない。
食べ終わった鍋の底に、少しだけ白菜が残っていた。
「あとで食べよう」と思って冷蔵庫に入れる。
そのとき、野菜室の白菜が目に入る。
まだ半分以上ある。
なのに、なぜか焦りよりも、静かな安心が来た。
白菜は、明日もそこにいる。
私がどんな顔で帰ってきても、たぶん同じ顔で、同じ重さで、同じ白さで待っている。
うまくいかない日って、全部が崩れた気がするけど、崩れてないものもちゃんと残ってる。
私は今日、それを白菜で知っただけ。
答えは、まだ出ない。
「ちゃんと保存する」も、「全部使い切る」も、「うまく生きる」も、たぶん一気にできない。
でも、一玉の白菜を買ってしまう自分を、今日は少しだけ許してみたい。
揺れたまま、切って、煮て、明日に渡す。
明日は、どの切り方にしよう。
シャキッとさせたいのか、とろっとさせたいのか。
その答えが分からないままでも、白菜はたぶん、どっちにもなってくれる。
冷蔵庫の扉を閉めたときの「カチッ」という音だけが、今日の終わりを静かに決めた。




