暖房つけっぱなしの部屋で肌だけ老けて見える日、加湿しても救われない冬の顔問題

朝、カーテンを開ける前から、部屋の空気が「白い」気がした。音は静かなのに、のどだけが先に起きて、ひと口目の水がやけにおいしい。エアコンの表示は22℃。だけど、あの“ぬくいのに乾く”感じが、2月の朝にはいつも混じってる。
洗面所の鏡の前で、私はいつもより少しだけ顔を近づけた。まつげの生え際の影。小鼻のわきの細い線。頬の毛穴が、昨日よりちゃんと「点」になっている。
…いや、点になったんじゃなくて、点として見えるようになっただけなのかもしれない。照明のせい? 寝不足? 生理前? それとも、暖房の乾燥が肌の表面から“若さの膜”みたいなものを剥がして、年齢の輪郭だけを残していったとか。
考えすぎだよ、って自分に言うくせに、鏡に映る自分の顔には、いつも一票を投じてしまう。今日の私は、今日の私の「判定員」でもあるから。
それで、スキンケアを少し丁寧にやった。化粧水を重ねて、乳液を多めにして、最後にクリームを指の腹で押すように。
なのに、終わった直後から「つっぱり予告」が始まる。目を細めた瞬間、頬の内側が、薄い紙みたいに引っぱられる感じ。
私の肌は、いま何を言いたいんだろう。足りないって? 間違ってるって? それとも、ただ冬が嫌いって?
昼前、近所のスーパーへ行った。マスクの中で呼吸が温まって、鼻の頭だけが少し汗をかく。外は冷たくて、風が軽いのに刺さる。
店内は暖房が効いていて、野菜売り場の霧吹きの湿り気がやたら羨ましい。あそこだけ、肌が呼吸できそう。
レジに並びながら、ぼんやり「室内の湿度って何%がいいんだっけ」と思い出そうとして、思い出せない。昔は“加湿しなきゃ”で済んだのに、最近は“加湿しすぎも怖い”が追加されて、頭の中の取扱説明書が増えた。
快適な湿度の目安が40〜60%って、どこかで見たことがある。肌だけじゃなく、ウイルスやカビの話もセットで語られるやつ。結局、人間が生きやすい範囲って、いろいろと折り合いの産物なんだなと思う。
帰宅して、またエアコンをつけた。部屋はすぐ暖かくなる。でも、暖かさと一緒に、肌の水分もどこかへ連れていかれる気がして、私は加湿器のスイッチを迷う。
“つける”と、窓が結露する。
“つけない”と、顔が乾く。
どっちも、いや。
大人って、こういう「どっちもいや」を、毎日いくつも持ち歩いてる。
夕方、スマホのカメラを内側にして、ふと顔を映した。別に自撮りしたいわけじゃない。髪型でも確認しようかな、くらいの軽い気持ちだった。
なのに、私は画面の中の頬の“影”に目が止まった。
影って、光があるからできるはずなのに、今の私は、影のほうが先に存在しているみたいに見えた。
あ、これが「年齢バレる」ってやつか、と心のどこかが冗談みたいに言う。
誰にバレるの?って聞けば、答えはたぶん、私。
暖房乾燥で年齢バレる2月の肌
私は、冬の肌を「乾く」だけで片付けられなくなってきた。
乾くと、肌がガサつく。かゆい。粉をふく。――ここまではわかりやすい。
でも、2月の乾燥はもう少し意地悪で、表面の症状より先に、気持ちのほうを削ってくる。
たとえば、化粧のノリ。
ファンデが浮く、というより、“肌が乗せる気がない”。
頑張って均一にしようとすると、逆に「ほら、ここに線があるよ」って、顔が自白してくる。
鏡の前での私の手つきが、いつもより慎重になって、いつもより優しくなるのに、それでも追いつけない感じ。
あの追いつけなさが、年齢に見える。
冬は空気が乾燥して、皮膚から水分が逃げやすくなって、角層のバリアが弱りやすい――という説明は、たぶん正しい。皮膚の一番外側の角層が守ってくれていて、そこが乱れると、さらに乾燥が進む、みたいな話。
それに、経皮水分蒸散(TEWL)という“肌から水分が抜けていく量”の指標が、冬は上がりやすいとも言われる。
こういう事実を知ると、少しだけ安心する。「私のせいじゃない」って言い訳ができるから。
でも、同時に思う。
たとえ理屈が正しくても、私がいま感じているのは、ただの“水分の蒸散”じゃない。
乾燥した部屋で過ごす時間が増えたぶん、私は自分の顔を気にする時間も増えている。
この冬、私は何回、鏡を見たんだろう。
鏡を見る回数が増えるほど、肌の小さな変化は「大きな意味」になってしまう。乾燥は、その意味づけを手伝う。
年齢をバラすのは、乾燥そのものじゃなくて、「乾燥を見つめる私の目」かもしれない。
この季節、肌の調子が悪いと、生活全体が雑に見える気がする。
寝てないの?
ちゃんと食べてる?
心が荒れてない?
肌の不調は、いつも勝手に“生活指導”を始める。誰も頼んでないのに。
加湿器をつけるか迷うのも、その延長線上だ。
湿度を上げたほうがいい、という話はよく見る。でも、上げすぎると結露やカビが気になる。結局、40〜60%くらいが現実的、という「無難な範囲」に落ち着く。
“無難”って言葉は、安心させてくれる反面、私の心を少し冷やす。
だって、無難って、挑戦でもないし、成功でもない。
ただ、事故らないように生きるための数字だから。
それでも私は、今日だけは加湿器をつけた。
湿度計が45%から、じわっと50%に近づいていく。
その数字を見て、肌が潤った気がする。――気がするだけ。
でも、こういう「気がする」は、案外大事だと思う。
肌って、物理だけでできていない。私の気分も、皮脂も、水分も、ぜんぶ混ざってる。
乾くたびに、私は自分を“見破る”
夜、クレンジングをするときがいちばん正直だ。
メイクを落とすと、今日の顔が剥がれていく。
その下から出てくる素肌は、誰にも見せないはずなのに、私は一番厳しい目で見てしまう。
「この乾燥、さすがにまずいかも」
「やっぱり、最近ちゃんと寝てない」
「水飲んでない」
「塩分多かった」
「心がトゲトゲしてた」
肌の状態は、私にとって“生活のレシート”みたいで、買ったものも、買わなかったものも、全部印字される。
でも、私にはわかっている。
肌が荒れた日って、必ずしも生活が荒れているわけじゃない。
むしろ、頑張った日のほうが荒れたりする。
寒いからといって長風呂して、熱いシャワーで流して、気持ちよかったぶん、あとで乾く。
丁寧に洗ったつもりが、摩擦になっていたりする。
良かれと思って塗り重ねたものが、翌朝の毛穴に残っていたりする。
努力がそのまま結果に変換されないことを、肌はしつこく教えてくる。
それにしても、肌って不思議で、触るときの私の「機嫌」がそのまま伝わる。急いでいる日は、指が荒い。眠い日は、塗り方が雑。誰かの言葉に引っかかった日は、やたらと“効きそうなもの”を足したくなる。
逆に、なにも起きなかった日は、最低限のケアでも平気だったりして、「結局、なにが正解なの…」と小さく途方に暮れる。
最近、乾燥すると“老けた”って思ってしまうのは、肌そのものより、私の心の方が先に乾いているからかもしれない。
潤いって、水分量だけじゃなくて、「ま、いっか」って言える余白のことでもある。
余白が減ると、顔の線はただの線じゃなくて、焦りの証拠みたいに見える。
だから私は、肌のためというより、自分のために、加湿器の前で少し立ち止まる。湯気が出ているのを見ていると、思考が一段ゆっくりになるから。
そして2月は、年度末の気配が近づいて、気持ちが少し急ぐ。
仕事の締切。予定の調整。誰かの送別会の話。
自分の生活が「春に向かって整えられていく」感じに置いていかれると、私は肌にだけ、先に春を要求してしまう。
透明感とか、つやとか、軽さとか。
でも肌は、まだ冬のままで、冬のままの私を置いていかない。
そこが、ちょっと救いでもある。
私が無理に先へ行こうとすると、肌が「ちょっと待って」と袖を引くみたいに乾く。
今日の私は、たぶん、うまくいかなかった。
朝の鏡で、勝手に落ち込んで。
昼に、湿度のことを思い出せなくて。
夕方のスマホの画面で、自分の影に引っかかって。
夜になっても、肌の乾きが“気持ちの乾き”と区別できなくて。
だけど、それを「対策」で終わらせたくない気もする。
保湿を増やす、加湿する、湯温を下げる、摩擦を減らす。
たぶん全部正しい。
でも正しさだけで、私のモヤっとした気持ちが片付くなら、こんなに2月は長くない。
肌は、乾く。
年齢も、重なる。
それでも私は、明日の朝もまた、鏡に少し近づいてしまうんだろうか。
もし近づくなら、今日は“欠点探し”じゃなくて、「今日ここまで生きた顔」を確認するために近づけたらいい。
…いや、そう言いながら、たぶん明日も私は、小鼻の横の線を見つけてしまう。
そして見つけた瞬間、ほんの少しだけ、笑ってしまうかもしれない。
だってそれは、私が私を見張っている証拠でもあるから。
最後にひとつだけ、今日の結論みたいなものを置いておく。
乾燥が年齢をバラすんじゃなくて、乾燥に揺れる私が、私の時間をそっとバラしている。
明日も乾くかもしれない。乾いたらまた迷う。たぶん私は、その迷いごと抱えて春に行く。




