SNSで他人と比べて落ち込んだ夜の本音(幸せそうな投稿のあとに来る静かなザワつき)

夜の部屋って、昼間より「自分の生活」がよく見える。
電気をひとつだけにして、暖房の風がカーテンをほんの少し揺らして、湯たんぽのぬくもりだけがやけに具体的で、そういうときに限ってスマホの画面は、妙に鮮やかで、よその人生を高画質で見せてくる。
今日の小さな出来事は、ほんとにくだらないと言えばくだらない。
帰宅して、コンビニで買ったおにぎりをテーブルに置いて、いつものように靴下のままフローリングをすべって、コートをソファに投げて、手洗いだけは一応して、すぐスマホを開いた。
それだけ。特別な事件なんて起きてない。
でも、たったそれだけで、夜が少しだけ沈んだ。
タイムラインに流れてきたのは、同い年くらいの子の旅行の写真だった。海が透けていて、空がやわらかくて、笑っている顔が「最近うまくいってる」っていう空気をまとっていて、コメント欄には、軽い祝福が並んでいた。
見た瞬間、胸の奥が「うっ」て小さくつっかえたのに、私はなぜか、指を止めなかった。
もっと見た。ストーリーも見た。タグも見た。ホテルも見た。
見れば見るほど、私の部屋の空気が乾いていくのが分かるのに。
ああ、こういうのって、嫉妬って言えば一言で終わるのかもしれない。
でも、今日の私は、その言葉で片づけたくなかった。嫉妬って、なんだか感情の責任を私が全部かぶるみたいで、ちょっとずるい。
私が落ち込んだのは、「相手が幸せそうだから」だけじゃなくて、たぶん、もっと薄くて、静かで、説明しづらい何かだった。
たとえば、タイムラインの向こう側の人は、今ここにはいない。
なのに私は、いまこの部屋で、誰にも見られてないのに、ひとりで勝手に点数をつけられている。
“今日の私、何点?”って。
しかも採点者は私で、採点基準も私で、なぜか急に厳しくなるのも私で、そんな一人相撲が夜になると簡単に始まる。
そこから先は、わりとよくある流れだった。
仕事の疲れがまだ背中に残ってるとか、部屋が片づいてないとか、将来のことをちゃんと考えられてない気がするとか、なぜか洗濯物の山が「私の怠慢」みたいに見えてくるとか。
「私だって頑張ってる」って言いたいのに、そう言うこと自体が負け惜しみみたいで、さらに嫌になる。
この感じ、分かる人には分かると思う。たぶん、静かに、胃のあたりが冷える。
そして、ここからが今日の“今まであまり書いてこなかった視点”なんだけど、私が落ち込む夜には、いつもひとつ癖がある。
それは、比べて落ち込んだ投稿を、なぜかスクショして保存してしまうっていう癖。
自分でも意味が分からない。
嫌なら閉じればいいのに、ミュートすればいいのに、私は「証拠」みたいに保存してしまう。
それが自分を傷つける刃だって分かってるのに、手元に置いておきたくなる。
まるで、痛いところを指で確かめるみたいに、ちゃんと痛いかどうかを確認して、「やっぱり痛い」って納得するために。
今日もやった。
写真をスクショして、カメラロールに入れて、すぐ見返すわけでもないのに、保存した。
その瞬間、私は自分に対して「うわ、性格悪…」って思った。
誰にも言わなかった本音は、これだ。
「見なきゃいいのに、見て、落ち込んで、しかも保存までしてる私は、何がしたいの?」
…って、ひとりで引いた。自嘲ってこういうことかもしれない。
ザワつきの正体は「嫉妬」より「置いていかれる気配」に近い

少し調べてみたことがある。
SNSで他人と比べて苦しくなるのは、性格の問題だけじゃなくて、人が人を見て自分の位置を測ってしまう仕組み(いわゆる社会的比較)と、SNSの構造が噛み合うせいで起こりやすいらしい。
そもそもSNSは、日常の“全部”じゃなくて、切り取られた“ハイライト”が並ぶ場所だし、アルゴリズムは「見ている時間が長いもの」を優先して流してくる。
つまり、落ち込みやすい人が落ち込みやすいものを見続けると、わりと簡単に“落ち込みやすい世界”ができあがる。
でも今日の私は、「ハイライトだからね」っていう正論で救われなかった。
正しい説明が、心の温度を上げてくれるわけじゃない夜がある。
私が感じたザワつきは、嫉妬というより、置いていかれる気配に近かった。
相手が前に進んでいるというより、私がその場に取り残されている感じ。
しかも現実には取り残されてもいないのに、画面の中の速度感だけが速くて、私の生活が急にスロー再生になる。
冷めかけたおにぎりを食べる私だけが、世界のテンポに乗れてないみたいに。
SNSのキラキラって、「眩しい」じゃなくて「速い」ことがある。
スピードが速いものを見たあと、こっちの生活の遅さが目立つ。
遅いことが悪いわけじゃないのに、遅い=ダメ、みたいな気分にさせられる。
今日の私は、その錯覚に、わりと素直に引っかかった。
スクショ保存は「自己いじめ」じゃなくて、たぶん「証明したい」だった
自分が嫌になったあの癖――スクショ保存。
あれって、自己いじめだと思ってた。
でも今日、保存した写真を眺めながら、違う気がしてきた。
私が本当に欲しかったのは、「相手の幸せ」じゃなくて、たぶん、自分が落ち込む理由の証明だった。
落ち込んだときって、うまく言えない。
「何が嫌なの?」って聞かれても、うまく説明できない。
だから私は、画面の中の“それっぽい証拠”を手元に残して、「ほら、こういうの見たら落ち込むでしょ」って、誰に言うでもなく証明したかったのかもしれない。
つまり、私が救ってほしかったのは、自己肯定感とか、前向きな言葉とかじゃなくて、もっと低いところにあるもの。
「落ち込むの、当然だよ」っていう許可。
その許可が欲しくて、私はスクショを撮ってしまう。
これ、ちょっと怖い。
だって、許可が欲しいのに、許可をくれる人は画面の中にはいないから。
だから私は、証拠だけを増やして、どんどん自分の裁判を長引かせる。
判決が出ないまま、証拠だけが積み上がる。夜って、そういうことができてしまう。
「わかる…」って言われたいのに、誰にも言えない。
この矛盾が、いちばんしんどいのかもしれない。
たぶん、同じように、言えないままスマホを握ってる人、いる。
今日だけの小さな気づきは「比べる相手」じゃなくて「比べ方」がずれてたこと

ここで、急に人生が好転する話にはならない。
通知を切って、SNSをやめて、毎日が晴れました、みたいな結末は、私の生活には来ない。
むしろ明日も、たぶん見る。うっかり見て、またザワつく可能性は高い。
それが等身大ってやつだと思う。たぶん。
でも、今日ひとつだけ気づいたのは、私が比べていたのは「相手」じゃなくて、**相手の“編集後の一瞬”と、自分の“編集前の全部”**だったこと。
これ、フェアじゃない。
相手は綺麗に切り取った一枚で、私は散らかった部屋も、疲れた顔も、返信しそびれたLINEも、全部まとめて自分に見せている。
そんな状態で比べたら、そりゃ負ける。というか勝負にならない。
それでも、分かってても比べてしまうのが人間なんだけど、ここで今日の小さな“違和感”が出てきた。
私、いつの間にか「幸せ=外に見える成果」みたいな物差しを借りてた。
旅行、恋人、キラキラ、リアクション数、祝福コメント。
そういう“見える幸せ”だけが、急に正解みたいな顔をして、私の部屋に入り込んできてた。
でも、今日の私は、帰宅してちゃんと手を洗って、温かいものを食べて、寒いからって膝掛けを出して、明日も働くために風呂を沸かす段取りをしている。
地味だけど、それも生活で、それもちゃんとした営みで、そこに点数をつける必要は本当はない。
……って、言い切れないのが今日の私なんだけど、言い切れないままでも、「借りた物差しで殴られてたかも」って気づけたのは、小さな変化だった。
それで、私はスクショをひとつだけ消した。全部じゃない。ひとつだけ。
消したあとに、胸がすーっとしたわけじゃない。
ただ、「あ、私いま、自分の手で自分を少しだけ緩めた」って感じがした。
大げさじゃなく、本当にそれだけ。
スマホを閉じたら、部屋の音が戻ってきた。
冷蔵庫の低い唸りと、外を走る車の遠い音と、加湿器の水が揺れる気配。
その全部が、急に「私の生活」だって思えた。
よその生活を見ていた目が、ようやくこっちにピントを合わせ直したみたいに。
たぶん私は、幸せそうな投稿を見たあとに落ち込む自分を、ずっと“弱い”と思ってた。
でも今日の私は、弱いというより、ただ、疲れていて、心の皮膚が薄くなっていて、そこに眩しいものが当たって沁みただけ、みたいな気がしている。
沁みる日はある。沁みる夜もある。
沁みないふりをするより、沁みたって言えるほうが、たぶん少しマシだ。
最後に、ひとつだけ問いかけを残して終わりたい。
もし今夜あなたが、誰かの“幸せそうな一瞬”を見たあとに、静かにザワついてしまったなら――そのザワつきの正体は、ほんとうに「羨ましい」だけですか。
それとも、もっと言葉にならない、「置いていかれそうな気配」だったりしませんか。




