成分を読む夜、私は何を安心させたいんだろう

帰り道、駅のホームの端っこで、手袋の中の指先がじんわり冷えていくのを感じながら、スマホの画面をぼんやり眺めていました。
空気が乾いていて、吐く息だけが白く目立つのに、頭の中は逆に散らかっていて、今夜の晩ごはんと明日の朝の支度と、返しそびれたLINEと、仕事のちいさなミスのことが、同じ棚にぐちゃっと詰め込まれている感じ。
家に着いたら、とりあえずお湯を沸かして、なんでもいいから温かいものを飲みたい。そう思って、いつものドラッグストアに寄りました。
店内の明るい照明って、疲れているときほど容赦なく自分の顔色を映すから苦手です。
ドラッグストアって、便利で、安くて、生活の味方のはずなのに、最近は「自分を採点される場所」みたいに感じる瞬間があります。棚には“時短”“高機能”“透明感”“毛穴”“若見え”みたいな言葉がずらっと並んでいて、私はそれを必要としているような、必要としていないような、どちらとも言い切れない顔で通り過ぎる。
仕事帰りの私は、だいたい思考が弱っているから、言葉の強さにいちいち反応してしまうんですよね。気づけば「私はどこを直せばいいんだっけ」と、存在しないテストの答案を探し始める。笑える話だけど、笑えない日もある。
それに、成分の話題って、いつの間にか“美容好きだけの世界”じゃなくなってきました。SNSで「これは入ってるから買わない」「これは避けたほうがいい」みたいな投稿が流れてきたり、YouTubeで成分解説の動画が普通に回っていたり、医師や研究者っぽい人の言葉が切り抜きで届いたりして、情報が生活に混ざる速度が異常に速い。
若い子が成分トークを当たり前にしているのは、頭がいいからというより、その情報の海に最初から住んでいるからなんだと思います。私は、途中からその海に入った。しかも、息継ぎの仕方がまだ下手。だから余計に、焦るのかもしれない。
入口の近くでカゴを取って、いつも買う日用品の棚に向かおうとした、そのときでした。化粧品コーナーの前で、二十代前半くらいの女の子が二人、ちょっとした会議みたいに真剣な顔で立っていて、片方がボトルの裏側を指でなぞりながら言ったんです。
「これ、成分の並びがいい。シリコン少なめだし、ここに〇〇入ってるの強いよね」。もう片方が「え、でもこっちは防腐が気になる」と返して、二人とも「成分」という言葉を、まるで共通言語みたいに自然に使っていました。
私はその横を通り過ぎながら、なぜか胸がきゅっと縮みました。羨ましいとか、偉いなとか、そういう素直な感想の前に、「私は置いていかれてる」という焦りが先に来た。
昨今、若年層を中心に成分に注目して化粧品を購入する人が増えている、という話は前から耳にしていたけれど、実際の会話として目の前に現れると、妙にリアルで、妙に刺さる。
肌悩みが増えたり深刻化したりする“30代”こそ、この流れに乗りたいところ――頭の中で、誰かの記事の一文みたいな言葉が勝手に再生されて、さらに嫌な気持ちになりました。私は、流れに乗りたいんじゃなくて、乗り遅れたくないだけなんじゃないか、って。
ここで、誰にも言わなかった本音があります。私、成分を見るのが「賢い」って言われる空気に、ちょっと疲れている。
正確には、成分を知ること自体は大事だと思うし、必要な知識だとも思う。でも、知っていない自分が急に無防備に見えてきて、知っている人のほうが強そうに見えて、知らない私は、守り方を知らないまま外に立っているみたいな気分になる。…そんなふうに思う自分が、少し情けない。
①「成分を読む」という行動は、化粧品だけの話じゃなくなってきた
棚の前で立ち止まって、私は手に取ったボトルの裏をひっくり返しました。いつもなら表のキャッチコピーだけ見て「まあこれでいいか」と戻すのに、今日はなぜか、細かい文字の列に目が吸い寄せられた。
配合量の多い順に並ぶとか、難しい横文字が続くとか、そういう基本的なことも、ちゃんと理解しているわけじゃありません。それでも、見ないより見たほうが“ちゃんとしてる”気がして、見れば見たで、今度は「よくわからない」が増える。
そこでふと気づいたのが、最近の自分、化粧品だけじゃなく、いろんなものの「裏側」を見ているということでした。
食品の原材料、サプリの栄養成分表示、洗剤の注意書き、柔軟剤の香りの説明、時にはネット記事の参考文献まで。知っていると安心する、というより、知らないままだと不安になるから見ている。私はいつの間にか、情報で自分を守る癖をつけ始めていました。
だけど、その癖って、たぶん便利さと引き換えに、心の中の休憩スペースを削っていくんですよね。細かい文字を追うたびに、「選び間違えたらどうしよう」が湧いてきて、正解を探しに行って、また疲れる。わかる…って思う人、いると思うんです。選択肢が増えるほど、選べない自分が浮かび上がってくる感じ。
②若い子の「成分トーク」に刺さったのは、肌よりも“自信”のほうだった
今日いちばん刺さったのは、「選ばないことは、無責任」みたいな空気でした。たとえば職場の昼休み、同僚が「最近は成分ちゃんと見ないと怖くない?」と軽く言っただけで、私はなぜか責められた気がしてしまう。
別に誰も私を責めていないのに、勝手に自分の中で審判が鳴る。そういう“勝手な裁判”って、30代の心の中にしれっと住み着くんですよね。仕事では判断を求められて、将来のことも自分で決めなきゃいけなくて、恋愛も友情も、正解がないのに選択だけは増えていく。
その上、日用品まで「あなたは知っていますか?」と問いかけてくると、もう、ちょっと勘弁してって思う。
レジに並ぶ間、さっきの二人の会話が頭から離れませんでした。成分に詳しいことが、今の時代の“自己防衛”であり、“自己表現”でもあるみたいで、そこに私はうまく参加できない。もちろん、参加しなくても生きていける。でも、参加できないことが、単純に悔しい。
たぶん私は、肌悩みが増えたから成分を知りたい、というより、成分を知っている私でいたい、が強い。
ここが今日の違和感でした。自分の肌のこと、生活のこと、体調のこと、仕事のこと、全部がちょっとずつ難しくなっていく30代で、私が欲しいのは「正しい答え」より、「私は対処できる」という感覚なのかもしれない。
成分表を読める人って、なぜか“自分のことを自分で守れます”って顔をして見えるじゃないですか。私も、そういう顔をしてみたい。そんな、ちょっと見栄っ張りな気持ち。
でも同時に、「賢く選べる私」を演じようとすると、生活のいろんなところが窮屈になります。これは良い、これは悪い、こっちは避ける、こっちは推す。
白黒をつけたほうが気持ちは楽だけど、現実はそんなに単純じゃなくて、結局私は、冷蔵庫の残り物で適当な夜ごはんを作って、洗濯物を畳みながらソファでうたた寝して、明日の服を決められないまま寝るんです。成分に詳しくても、生活が急に整うわけじゃない。そこが、ちょっと可笑しくて、ちょっと救いでもある。
③私が欲しかったのは「知識」よりも、「立ち止まる時間」だった

家に帰って、コートを脱いで、洗面所の鏡を見たとき、私は自分の顔に「今日も頑張ったね」って言いたくなるほどでもなく、「お疲れさま」って言いたくなるほど可愛げがあるわけでもない、いつもの自分がいました。
なんとなく、目の下が重たく見える。だからといって、今夜なにか特別なことをする元気はない。そういうとき、私はつい「何かを買う」とか「何かを足す」とか、外側の選択で帳尻を合わせたくなる癖があります。成分を調べるのも、その延長にある気がしました。足りない不安に、ラベルを貼って安心したい。
そこで、今日だけの小さな行動をひとつしてみました。買ってきたものを棚にしまう前に、スマホを机の上に伏せて、ボトルの裏を読むのをやめて、代わりに、湯気の立つお茶を一口飲んだ。たったそれだけ。
成分表に向けていた集中を、いったん自分の体の感覚に戻してみた。喉が温まる、肩の力が抜ける、部屋の静けさが耳に届く。そういう当たり前のことが、今日は少しだけ新鮮でした。
気づいたのは、成分を読む行為そのものが悪いわけじゃなくて、読んだ先で「私はまだ足りない」と自分を責めるクセが問題だった、ということ。肌のため、将来のため、ちゃんとしたい気持ちのために、知識を増やしたはずなのに、その知識がいつの間にか「できていない私」をあぶり出す道具になっている。私、こういうところ、ある。わかる…って、あなたもどこかで思ったこと、ありませんか。
もちろん、知ることは大事だし、成分に注目して選ぶのは賢い流れだと思う。特に30代は、変化が増えるからこそ、無自覚に何かを使い続けるより、自分の意思で選びたい。でも今日の私は、その“意思”が、いつの間にか「不安の埋め合わせ」になっていないかを、少しだけ疑ってみたかった。
明日から、私はたぶんまた成分表を見ます。ネットで検索もするし、口コミも読むし、急にすべてを手放せるほど達観していない。
でも、見たあとに一呼吸する。知らない単語に出会ったとき、「私は遅れてる」と決めつけずに、「今ここからでいい」と言えるかどうか。そこを、今日は練習したかったのかもしれません。
成分の時代って、結局のところ、私たちが「自分で選ぶ」ことを求められる時代なんだと思います。選ぶ自由は、時々、選べない自分を責める刃にもなる。だからこそ、選ぶ前に、いったん立ち止まれる人でいたい。知識を増やすのと同じくらい、立ち止まる時間を増やしたい。
今日、ドラッグストアで立ち尽くした私みたいに、あなたも、誰かの会話やSNSの一言で、急に不安が湧いてきた夜はありますか。そんなとき、あなたは、何を読んで、何を足して、何を見ないふりをして、なんとか明日を迎えていますか。




