化粧水をつけたあとの「コットンの角」が、なぜか私の本音を知っていた日

使い終わったコットンの角だけが、妙に生活感を帯びている
ちゃんとケアしたはずなのに、角だけ乾いている問題
夜のスキンケアって、正直、儀式みたいだなと思う。
お風呂から出て、髪をタオルで雑に包んで、鏡の前に立つ。
本当は、ここで「今日も一日お疲れさま、私」と言いたい。
でも現実はだいたい、「早く寝たい」「明日の仕事行きたくない」「化粧水どこ置いたっけ」である。
そんな私が最近、地味に気になっているものがある。
それが、化粧水を含ませたあとのコットンの角。
真ん中はしっとりしている。
肌に当てた部分も、ちゃんと働いた顔をしている。
なのに、四隅だけ妙に乾いている。
あの角だけ、まるで会議中に話しかけられなかった新人みたいに、存在感を消している。
私はそのコットンを見るたびに思う。
「もしかして、私もこういう感じで生きてない?」
ちゃんとやっているつもり。
仕事もしている。
人にも気を遣っている。
婚活アプリの返信も、できるだけ感じよく返している。
でも、自分の一番端っこだけ、ずっと乾いている。
誰にも見えないところ。
褒められるほどではないところ。
でも、本人だけは気づいているところ。
スキンケアの話をしているはずなのに、急に人生の話になってしまうのが、三十路女の怖いところである。
4月26日の春の肌は、思ったよりわがまま
今日は4月26日。
二十四節気では穀雨の時期。
春の雨が土をうるおして、植物がぐんぐん育つ頃。
外では新緑がきれいで、空気もやわらかい。
なのに、私の肌はなぜか素直じゃない。
春だから軽やかに生きたいのに、頬は乾く。
暖かくなったからもう大丈夫と思っていたのに、口元はつっぱる。
紫外線も気になるし、花粉の名残みたいなムズムズもある。
季節はちゃんと進んでいるのに、肌だけが少し置いてけぼりになる。
この時期のスキンケアって、冬の重たさから抜けたい気持ちと、まだ保湿を手放せない現実の間で揺れる。
だから私は、化粧水をコットンに含ませるとき、つい多めに出してしまう。
足りないよりは、余るほうが安心。
そう思っているのに、なぜか角だけは乾いている。
不思議だ。
いや、不思議というより、ちょっと切ない。
きっと私は、肌全体をうるおしているようで、細かいところまで見ていなかったのだと思う。
小鼻の横。
口角の下。
眉間。
フェイスライン。
そして、コットンの角。
そういう小さな端っこに、その日の雑さが出る。
忙しい日は、コットンも雑に使われる。
心に余裕がない日は、肌に触れる手も少し急いでいる。
誰にも怒られない。
誰にも指摘されない。
でも、鏡の前の自分だけは、なんとなく知っている。
「あ、今日の私、ちょっと荒れてるな」と。
それは肌だけじゃなくて、生活のほうも。
最後に気づいた、乾いていたのは肌じゃなかった
ある夜、私はいつものようにコットンに化粧水を出した。
そして、なんとなく思いつきで、角の部分を指で少しだけ押してみた。
すると、乾いていると思っていた角から、じんわり化粧水が出てきた。
あれ。
乾いてなかった。
ただ、私がそこを使っていなかっただけだった。
その瞬間、少しだけ変な気持ちになった。
私はずっと、コットンの角が乾いていると思っていた。
うるおっていない場所だと思っていた。
届いていない場所だと思っていた。
でも本当は、そこにもちゃんと化粧水は含まれていた。
私が、そこに触れていなかっただけ。
それって、なんだか自分みたいだった。
私はよく、自分には余裕がないと思っている。
魅力も足りない。
時間も足りない。
気力も足りない。
誰かに選ばれる自信も、将来を明るく見る力も、足りない。
でも、もしかしたら本当は、足りないのではなくて、まだ使っていない部分があるだけなのかもしれない。
やさしさも。
色気も。
ちゃんと休む力も。
人に甘える力も。
「私はこういう人間だから」と決めつけて、触れてこなかった角が、自分の中にまだ残っているのかもしれない。
そう思ったら、使い終わったコットンが急に愛おしくなった。
さっきまでゴミ箱行きだったのに。
急に人生の先生みたいな顔をしている。
ずるい。
しかも、もっと驚いたことがある。
翌朝、私はそのコットンの角のことを思い出して、いつもより少しだけ丁寧にスキンケアをした。
化粧水を増やしたわけでもない。
高い美容液を足したわけでもない。
ただ、いつも飛ばしていた口角の下やフェイスラインに、ちゃんと手を添えただけ。
それだけなのに、鏡の中の私は少しだけ穏やかに見えた。
肌が劇的に変わったわけじゃない。
頬が発光したわけでもない。
毛穴が消えたわけでもない。
でも、「私、雑に扱われるだけの人間じゃないよね」と思えた。
その日の夜。
私は使い終わったコットンをゴミ箱に捨てようとして、ふと手を止めた。
そして、最後に洗面台の蛇口まわりを軽く拭いた。
すると、白い陶器の上に残っていた水滴がすっと消えた。
そこで私は気づいた。
このコットンは、私の肌をうるおすためだけにあったんじゃない。
一日の最後に、私が自分の生活を少しだけ整えるためにあったのだ。
スキンケアだと思っていたものは、実は掃除だった。
いや、掃除だと思ったものは、たぶん心の手入れだった。
コットンの角に残っていた化粧水は、肌ではなく、私の暮らしの端っこをうるおした。
まさかの主役は、顔ではなく洗面台。
自分磨きのつもりで始めた夜のケアが、最後は水垢との和解で終わるなんて、誰が想像しただろう。
でも、私は少し笑ってしまった。
美しく生きるって、たぶんこういうことなのかもしれない。
きれいな言葉を並べることじゃなくて。
完璧なルーティンを守ることでもなくて。
使い終わったコットンの角で、洗面台の小さな水滴を拭けるくらい、自分の暮らしに戻ってくること。
肌も、生活も、心も。
端っこから乾いていく。
でも、端っこから戻すこともできる。
だから今夜も私は、化粧水をコットンに含ませる。
真ん中だけじゃなく、角までちゃんと見ながら。
そしてたぶん、最後にまた蛇口を拭く。
誰にも褒められない。
映えもしない。
でも、そういう夜があるから、私は明日もなんとか自分の顔で外に出られる。
コットンの角。
そんなところに、私の春が残っていた。




